時が止まればよいのに。
そう思う瞬間がある。
最初は思春期の時だったか。
その人のふとした笑顔や瞬き一つで気持ちは揺らぎ、初めて手を引かれた時は心臓が跳ねた。優しい気持ちになるということを初めて知った。
当時を鮮明に思い出せるのは、その時にフィルムのように心が灼かれたからなのだろう。甘く苦い記憶としてこれからも頭に居座り、そして生を終えるまでときめきや甘美な感情を想起させ続けるのだと思う。あの人は、いわば強制的に僕の時を止め、永遠を獲得したのだ。
あれから時間は経ち、世の中を少しは知ったり傷ついたり立ち直ったりして大人になった。それでも、時が止まればよいのにと思う時があるのは幸せなことだと思う。
僕はピアニストに憧れがある。
自分にはできない技巧的な指の動きや、音を通して目の前に表現される世界に圧倒されて、世界は美しくまたは複雑で、生きる価値あるものだと感じさせてくれる。
その人は、透明感ある音色、風が巻くようなエネルギー、真摯な音楽への向き合い方で、初めて演奏に触れたその時。
普段の柔らかい人柄からは想像ができないような獲物を狩る猛禽類のような目つき、薄い空をさらう小雨のようなアルペジオ、骨を揺らす和音。
時が止まればよいと思ったし、その願いは叶った。心が灼かれたのだ。
有名音大を出てやはり有名コンクールで優秀な実績を残し、全くの偶然で、縁があった。ほんの少しでも、事務的な関係でも、その人の人生に関われることに喜びを感じる。
立場上、わきまえなければならないし、その人からいかなるものも奪ってはならないと自制はする。
それでも、これからその人と関わる時、少しだけ心が弾むことは、そしてそれを自分だけの秘密にしておけるなら、許されるだろうか。
楽譜の表ではない、裏に書き残す。
あなたは一生知ることはないかもしれない。でも、それでいい。